ラジオ放送「みほとけとともに」 2013(平成25)年8月放送
中川 大城(なかがわ おおき)
「生かされて」ということ
生きる
生かされて 生きてきた
生かされて 生きている
生かされて 生きていこうと
手をあわす 南無阿弥陀仏
中川静村師の「生きる」の詩の冒頭です。この詩は、大阪教区の仏教婦人会、記念大会の折に森正隆師が曲をつけられ、仏教讃歌になっています。
普段「生きる」という言葉はよく使いますが、生かされる、という言葉はあまり聞かれません。体力や健康に自信があれば、自分ひとりの力で「生きている」と自負します。尚のこと、生かされる世界は感じにくいのかもしれません。毎日食事をいただきますが、美味しいか、そうでないかに心は向きますが、他の命に「生かされて」いることに、なかなか気づいていけません。ちょっと心を緩めて、広い視野で味わってみると、私を取り巻くたくさんのご縁によって、この私が「生かされて」いることに、気づけるのではないでしょうか。
しかし、今まで「生かされて 生きてきた」という感謝の思いがあったとしても、これからも「生かされて 生きていこう」とは、なかなか思えないものだと思うのです。
「人の世話になってまで生きたくない」そんな言葉をよく耳にします。自分一人で生きていけることが、当然のように聞こえる言葉です。しかし、誰しもが抱えるさまざまな苦悩を考えれば、人の世話にならざるを得ないのが私たちの姿です。それが不幸ならば、必ず不幸な生涯を送らねばなりません。しかし、世話になることに感謝し「生かされて 生きていこう」と思えたとき、肩の力がすっと抜けるような気がします。自らがすることよりも、してもらうことに目を向けて生きることができれば、とても豊かな時間を過ごすことができるということでしょう。
ともに「生かされて」いく世界はとても和やかで、穏やかです。詩にあるように「手をあわす 南無阿弥陀仏」とお念仏させていただくところに恵まれていく世界なのでしょう
詩の続きを見てみますと
このままの わがいのち
このままの わがこころ
このままに たのみまいらせ
ひたすらに 生きなん今日も
次はこのままという言葉が3度も出てまいります。手を合わせ、お念仏させていただく私ではありますが、その生き方や、心に目を向けてみれば、煩悩、つまり欲の心いっぱいの、恥ずかしい私を指して「このままの わがいのち このままの わがこころ」なんでしょうね。
浄土真宗は、煩悩を断ち切って救われていくのではなく、煩悩を抱えたこの身「このまま」で、お念仏によって救われていく教えです。そのままの救いとよく言われます。しかし、そのまま救うと願われた私は、欲望のままに生きていればよい、ということではなく、このままでは居(お)れない、と立ち返っていかねばならないのです。だからこそ「ひたすらに 生きなん今日も」と続くわけです。厳しい言葉だと思います。そこに、念仏者としての生き方が示されるように思います
詩の最後はこうなっています
あなかしこ みほとけと
あなかしこ このわれと
結ばるる このとうとさに
涙ぐむ いのちの不思議
恐れ多くも、みほとけと、もったいなくも、この私とが結ばれていくという心情が綴られています。まさに救う側と救われる側が結ばれていく感動が、「涙ぐむ」と、ここに伝えられています。私たちは簡単に「不思議」という言葉を使いますが、凡夫が凡夫のまま、お念仏によって救われていくこと、この私が、仏さまに成らせていただくことほどの「不思議」は、他に無いのだと思います。
「生きる」という題名は、自律的な表現ですが、内容は生かされるという逆の味わいになっています。そこに、この詩を一貫して包み込むなんとも言えない温もりが感じられます。
病気さえも、お念仏のご縁として
中川静村師は、晩年、癌を患いながら奈良県立医大のベットの上で、「生きる」を含むたくさんの詩を集め「そよ風のなかの念佛」という詩集を纏められました。
その、はじめのことばには
ねんぶつは そよかぜのなかからきこえてくる
ものか そよかぜぜんたいが ねんぶつなのか
おなじようにきこえながら じつは おおきな
ききかたのちがいのあることを しょうがいか
けて じぶんのものにしてみたい
と、あります。明日の命もわからない深刻な病状で「しょうがいかけて じぶんのものにしてみたい」という言葉に決意にも似た強い思いを感じます。記録ではこの2ヵ月後にご往生されています。
普段の生活で「ご縁ですね」って言葉を使うと思うのですが、そのとき、大体は自分にとって都合の良いものに限定してはいないでしょうか。そうではなく、全ての出来事をご縁として受け止めるところに、本当に味わうべきことがあると教えられます。
命を奪うほどの病気であっても、それをご縁として受け止めることに、念仏者の生き方を感じずにはおれません。その根底には阿弥陀さまの「あなたを必ず救う」という尊き願いがはたらいています。
こんな話を聞きました。昭和48年の出来事です。母は私を出産するとき、早産の恐れがあると、長期の入院を余儀なくされたと聞いています。そのとき母は、詩人と同じ病院に入院していたというのです。しばらくして、7月16日に中川静村師はご往生、それから15日後に同じ病院で私は生まれました。
入れ替わりとなり、お会いすることの無かった私が、この詩集を手に取り、また仏教讃歌「生きる」を歌っていることに言葉では言い尽くせないご縁を感じます。直接はお会いできなかったわけですが、詩を通してお会いしていることを、とても感慨深く思います。
詩人は「詩」を残しました。私は娑婆の縁尽きたときに何が残せるでしょうか。いま、この詩に連ねられた、お念仏の心が、そよ風となって、確かに確かに、ここへ届けられているように思います。
※詩集「そよ風のなかの念佛」では、3番末尾が「むすばれし このとうとさに 涙ぐむ 南無阿弥陀仏」となっていますが、仏教讃歌に用いられた原詩と、現在も歌われている歌詞を参考に「むすばるる このとうとさに 涙ぐむ いのちの不思議」と記載しました