houza logo 仏さまにまもられて

ラジオ放送「みほとけとともに」 2020年3月放送

健康第一

 お参りに寄せていただいたご門徒とのやり取りです。男性が私におっしゃるのです。「トマトが体に良いんです。リコピンという成分が効くらしいですよ。ぜひトマトを食べてください」と健康に関する話を熱心にされるのです。私は「教えていただいてありがとうございました。食べてみますね」とお伝えしました。

 次にお会いした時に私が「トマトを食べてみたのですが」と話を切り出そうと思った途端に「これからはクルミですわ。セロトニンが疲労回復に役立つそうです。毎日クルミを食べてください」と強く勧められるのです。そして話の最後には「仏さまにまもられていますから」とおっしゃるのです。健康の話題と突然出てくる「仏さまのお話」に驚きを隠しきれません。もうタジタジです。「クルミも食べてみますね」と返事をしました。「仏さまにまもられるということは、健康が維持されていくことではないのですよ」とお伝えしたかったのですが、あまりに熱心にお話をしてくださるので言いそびれてしまいました。

 なぜ健康のことばかりを話題にされるのか不思議だったのですが、しばらくして理由がわかりました。息子さんが若いころに交通事故にあってから一度も退院もせず、その入院期間が30年以上にもなるそうです。そして息子さんへのお見舞いは当時より毎日欠かすことがないとおっしゃるのです。「私が病院へ行って食事を口に運ばないと、ご飯も食べてくれない」と85歳になられる男性の切実な思いに初めて気づかされました。「そんなことがあったとは知りませんでした。大変ですね」と私がいいますと、男性は「何があっても私は倒れるわけにはいかない」とおっしゃったのです。

息子のために

 「健康であり続けたい」という思いは、自分自身のためではなかったのです。頑なに健康に配慮されるのは、息子さんのお見舞いを続けるためだったのです。私は男性の言葉から一体何を聞いていたのだろうと申し訳なく思いました。人の言葉をただ表面的にしか受け止めることができなかったわが身の愚かさを知らされました。私もできることならいつまでも元気でいたいと思います。しかしそこには趣味などの自分の欲求を満たしたいという思いしかないことに気づかされました。本当に恥ずかしいことです。「私は倒れるわけにはいかない」という決意は、わが子を放っておけないという親心から表れた言葉だったのです。健康に留意するその目的が身近に苦悩する家族に向けられていたことがとても尊く感じられました。しかし、一方ではいくら健康であり続けようと励んでも、生まれたからには、老い、病み、そして死んでゆくことは避けられません。そのことも必ず話さなければならないとも思いました。それをどうお伝えすればよいか考えていましたが、しばらくして息子さんの往生の知らせが届いたのです。

 「お名残り惜しいことでしょうね。お辛かったですね」と、お別れのときにお声をかけさせていただきました。うつむいたまま「私は親として何もしてやれなかった」とおっしゃいました。長年休むこともなく毎日病院へ見舞いに行った親の第一声がそれでした。息子さんにとっては毎日お父さんが来てくださることを何よりの励みにされていたことに違いありません。来る日も来る日も息子さんのために病院へ通い、自分のことは後回しにして、できることのすべてを注いだとしても、自分の苦労は一言も語らず、やってきたことはどこまでも不十分だとおっしゃるのです。親としてはなんとか病気を治してあげたい、できることなら代わってやりたい、そんな思いだったのではないでしょうか。

今ここの救い

 男性が会うたびに口癖のようにおっしゃっていた「仏さまにまもられていますから」という言葉を思いだします。息子さんを送られた後にも同じようにおっしゃっていました。しかし、わが子に先立たれた親として「仏さまにまもられている」とは受け止められないのではないかと私は思うのです。病気が治ることやいつまでも健康でいられることが「まもられている」のではないときっとご存じだったのだのでしょう。目の前にある現実を、そして苦悩のすべてを阿弥陀さまとのご縁の中に受け止めていらっしゃったのだと思います。「人生は苦しみに満ちている。しかしどのように生きて、どのように死んでも、どちらが(誰が)先であっても安心である」それは阿弥陀さまがご一緒の人生だったからでしょう。それこそ仏さまにまもられた人生であると気づかされました。

 阿弥陀さまのお救いを、先の話だ、死んでからのことだと遠ざけてしまうのではなく、「今ここの救い」としていただくことを教えられます。親鸞聖人は阿弥陀さまのお救いを摂取不捨(セッシュフシャ)とお伝えくださいました。「摂(オサ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり」とお慶びになっておられます。来る日も来る日も息子さんに親心を届け続けた男性は、阿弥陀さまの真の親心に支えられていたのです。「家族もそして私も、すでに阿弥陀様に抱(イダ)かれている」だから苦悩の中に精一杯生きてゆける。「仏さまにまもられていますから」との言葉より教えられました。